断片化に対する意志
学生時代からしてきた、いわゆる「勉強をする」という行為は、断片化されたものを理解し、記憶するということだったように思う。
では、その断片化がどのように行われているのか?
例えば、料理をするときに、「切る」というのは断片化である。
千切りにするのか、みじん切りにするのか。
魚であれば、ワタをとるのか切り身にするのか?
ワタをとるのと切り身にするのは違う。
ワタを取るというのは、断片化が魚の構造によって規定される。切り身にするのは、切る人間の裁量による。千切りもみじん切りも、切る人の裁量によると言う意味では同じだ。
その断片化が、どのような意志によってされたのかということは実は非常に重要である。
矯正の診断で行われるセファロ分析というものがある。
顔のレントゲンを横から撮って線を引いて断片化し、数値化する。
この断片化が、ワタを取るようにされているのか、切り身にされているのかということが非常に重要なように思えてならない。
少なくとも、「基準」がワタを取るように人体側から規定されるようなものではなくてはならないのではないだろうか?
ただ、「その基準線は、ワタかい?切り身かい?」などと言うと、誰も目を合わせてくれなくなりそうなので、心の中にそっとしまっておきたい。
ここで、「基準」ということに対して考察しなければならないという課題が生まれるのである。