全体と部分
リストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」という言葉について。
この言葉の破壊力は凄い。と気がつく。
僕らが学んできた歯科医学的知識は、「部分」である。
一方で、大学では「全体をみなければならない」と言われ続けてきた。
勉強会などでは、「その治療は木を見て森を見ずだね」などとよく言われる(ようだ)。
例えば、「全顎的治療」。
エンド(根の治療)、ペリオ(歯周病)、咬合関係・・・・様々な診査診断を重ねる。
その診査は、医学の発展とともにCBCT,細菌検査、咬合圧検査など増え続けている。
あらゆる観点からのより詳しい検査をもとに治療計画を立てることこそ、良い治療の大前提だとされる。
しかし「全体とは、部分の総和以上のなにかである」
という言葉は、この大前提を破壊する。
どういうことか。
そもそも、部分の完全な総和などない。
「これが部分を集めた全てです。」などということは不可能である。今の医学の発展から言えば、今日完全だと思っていたものが明日には不完全になる可能性がある。
さらに、万が一「これが部分を集めた全てです。」など以上の「なにか」があるのである。
その「なにか」はなんなのか?。
少なくとも大学では教わっていない。
僕が心配しているのは、部分の総和を重ねる事で、「なにか」を失う可能性はないだろうか?という事である。
少なくとも、部分の総和を求め続けることだけでは「足りない」ということは間違いないであろう。
木を集めたところで、森にはならないのだ。