歯科医療関係者の方へ

 

はじめに

 
医療関係者の方が私共の医院にご来院される際には、ほとんどの方がホームページをご覧頂いていることを知り、私たちの考えを専門家への言葉で表現してみようと考えてこのページを作成いたしました。
 私は、2004年に歯科医師となり、勤務を経て2008年に開業しました。 
日々臨床を行う中で、歯科治療の難しさの壁にぶつかり、そして医院経営においては、歯科医師過剰とそれに伴う競争の激化を体感しました。 
歯科医師過剰を論じるとき、多くは競争激化という視点から捉えられます。 
一方で、視点を変えてみると、『歯科医師過剰=歯科医師はもういらない』と突きつけられていると見ることも出来ます。 
つまり、私は、社会から存在意義を問われているのではないか?と感じるのです。 
 私が考える存在意義とは、私たちが決めることではなく「社会から何を要請されているのか?」から発せられるべきものです。 
競争激化に向き合うと自己への意識が強まり、存在意義に向き合うと使命感を意識します。 
私たちは、今一度「社会から何を要請されているのか?」を見つめ直そうと考えています。 
別の言葉で表現すれば、「自分の医院が成長するためにどうするか?」の前に、「社会の構成要素としてなにをすべきなのか?」ということを、本質を捉えながら冷静に考えていきます。 
  
 社会の要請に応えるための自分の医院の成長でなくてはならないのです。
 
 

難しい問題

 
私たちの社会的な使命は、「口腔の健康を回復し、生涯に渡り維持する」ことです。
この社会の要請から歯科が存在するのですから、これに応えなければ私たちの存在意義自体が揺らいでしまいます。 
「口腔の健康を回復し、生涯に渡り維持する」ことという言葉をパッとみれば、当たり前すぎて何とも思わないかもしれません。 しかし、深く考えてみれば、とてつもなく難しいことだと気がつきます。 
まず、歯科医療従事者が提供出来る健康とはどのような状態をいうのか? 
この問いに答えることができなければ、口腔の健康を回復し生涯に渡り維持することなど出来ません。 
考えれば考えるほど難しい問題です。 
明確に答えが出なくても、これに対して深く考察すること自体に価値があると考えます。
 

『疾患の治癒』と『健康』を考察する。

 
私は、治療によって疾患を(歯科における)治癒に向かわせます。
(※歯科においては、生体に不活性材料を適用するという時点で、治癒ということばを当てはめづらいのですが、  『歯科における治癒=我々が治療完了とする状態』とします。) 
 
仮に、「全ての疾患を治癒させること=私たちが提供出来る健康の状態」であると考えてみます。
この前提であれば、疾患を治癒させれば、私たちの使命が果たせたことになるということになります。 
そのためには、疾患を確実に検出する検査法と確実に治癒に導く医療技術が存在する必要があります。 
つまり、科学としての医学(いわゆる医療技術)が発達し、それを単純に適応できれば、私たちの使命は果たせるということです。 しかし、残念ながら、皆様ご存知の通り、疾患を確実に検出する検査法と確実に治癒に導く医療技術など存在しません。 
  
その前提に立つと、歯科医療従事者である私に出来ることは、科学的により確実性の高い医療技術を知るために知識を得て、それを患者さんに施術するための技術を身につける為に研鑽をすることだと考えます。
 
しかし、どんなに完璧な知識や技術を誇ったとしても、その方法は完全ではないのです。  
科学的に妥当であることを高い技術で行うことだけで良いのでしょうか? 
私は、この疑問に至ったとき、2つのことが必要だと考えました。 
  
①  我々が提供出来る健康に対して、それぞれがしっかりと再定義する。 
②  治療のよりどころとなる科学としての医学(医療技術)の限界の認識する。 
  
これこそが、いま、私たちに足りないことだ気がつきました。
私たちは、謙虚にこの事実を認め、その上でどのように社会の要請に応えるかを考えていかねばならないと強く思います。
 

健康を定義する。

 
私たちは、患者さんに健康と気軽にいっているかもしれません。
もしかしたら、『健康になるためには、こんな素晴らしい治療が必要です』とお話ししているかもしれません。
しかし、逆に『健康とはなんですか?』と聞かれて明確に答えられるでしょうか?
 私は、それに気がついたとき、自らの浅はかさと医療の奥深さの対比を突きつけられたような気がして、いてもたってもいられなくなった記憶があります。
 健康の定義いかんでは、保険の範囲内でも良い結果を生む治療もなり得ますし、医療従事者視点での素晴らしい診療が最悪の結果を生む治療にもなり得ます。当然、逆も然りです。
 『健康とは何か?』といういささか抽象的な問いに答えられることが、全ての治療に対する議論の前提であると考えています。

その前提なければ、治療行為の評価などできないはずです。
 

『科学としての医学』(いわゆる医療技術)の限界

 
私は、科学の限界は以下の3点にあると考えました。
 
 第1に、どれだけ科学が発達したとしても、厳密な意味での確実な検査法と確実な医療技術などは、日々の変化とそれぞれの多様性もつ人間が人間を相手にする臨床においてはありえない。 
 第2に、科学は『普遍性、客観性、論理性』を得るために、事物と人間のあいだの相互作用や働きかけを排除することから成り立っているということ。このこと自体、臨床とはかけ離れている。 
 第3に、新しい科学技術が必ずしも臨床おける必要性から発しているとはいえないということ。科学的に出来ることと臨床的にすべきことのギャップに対しての考察が必要である。(これが最も重要と考えます。) 
  
 この3点を考えたとき、科学としての医学(いわゆる医療技術)だけをよりどころにすることでは、やはり私たちの使命を果たせないと気がつきます。 
  
ゆえに、それを補完する思考が必要であると私は考えます。 
当たり前の話ですが、『科学としての医療』(いわゆる医療技術)の発達を否定しているわけではなく、逆に、より発達することは歓迎すべきであり、当然それにのっとて『治療行為』を行う必要があります。 
 

臨床家の進化

 

今後も臨床家が望む望まないに関わらず、医療技術は発達していきます。 
言い換えれば、臨床家の進化を待たずに、科学としての医学は先走っていきます。 
それに追いついていくのはもちろん大切なことですが、それだけでは足りません。 

私は、進歩する医療技術を『いかに扱うのか?』という臨床的思考が、私たちの使命を果たすために、そして今後の歯科医療(≠医療技術)の進歩にとって必要だと考えます。 
そのためには、私は具体的に3つのことをしなければなりません。 
  
第1に、発達した医療技術を使えるだけの、テクニックと知識を習得し続けること。(=従来型の研鑽) 
第2に、科学としての医学を広い視野で整理すること。 
第3に、その整理された知識を、社会や患者さんとの関係性の中でいかに扱うか?という臨床的な思考を表現していくこと。 
  
私は、まさにこのことを、この医院において、実際の臨床をとおして表現していきたいと考えております。 
以上が、進化がめまぐるしい科学としての医療(医療技術)のなかで、臨床家が向き合わなければいけない本質的な問題提起と、  私たちの医院がそれに対してどのように向き合っていくかという指針です。 
  
まだまだスタートラインに立ったばかりの医院ですが、今後とも、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。 

山麓通り歯科診療所  西野 由郷